手放すしかない、でもそれが楽です。
突然、何かに突き動かせられている気がすることがあります。
以前も申し上げましたが、チャネリングは特別な才能ではありません。皆さんも日常的にチャネリングをしていらっしゃいます。
ここ数か月チャレンジしていたワークにざわめく違和感を覚えました。
エゴの自分がムズムズしてざわめくのかと、動揺しましたが、それすらも天意に任せてみよう。と思い「感じる」がまま動いてみようと動いてみました。
そうして、自分の新しい感覚に慣れないで、どうしても古い感覚を手放せない自分を内観する作業をしてみます。
水面に水滴を落とすと波紋が広がるように、それは動いた分だけ現実的に広がって行きます。
それで分かったことは、波紋が広がると思って覚悟したものが現実的に広がりもしなければ本当に「つまらない」ものだったということです。
水滴が落ちて出来た波紋が広がるのを観て、綺麗な波紋と捉えるか、鏡のような水面を打ってしまったと動揺するか、人それぞれかもしれませんが、「反応」が当然起こることを概念として握りしめていると、反応がないことにつまらなさを感じ、反応させることを目標としたり、そうしているうちに感性が麻痺していくものです。
つまらないことは、詰まりがないこと。 反応がないことも、あるがまま。
自然の理は「あるがまま」、流れない=抵抗や刺激として楽しむとそちらの方が得てして生きている感覚があるものです。
しかし、生きていることに定義や意味づけをすることは、本来、人格・個性の意味で捉えることは全く違うのです。
一人であることを歓べなければ私(わたくし)の個性は出て来ません。
そして出てきた個性は、自分を知る行為でもあります。
汚く醜いまでの自分を直視して、自分と一人相撲するものたまにはいいでしょう、その稽古で観えてくるモノがあるのですから・・・
一人を怖がらないこと、本来、一人であることはつまらない=詰まりがないことです。
人は一人です。
一人は「素」ですが、二人になると意味と意義を見つけます。
そうして、観えてくるものから目をそらさずにいれば、私、私といっている「私」は誤魔化しで出来上がっていた私なのかもしれないと、ふと何を根拠に生きてきたのか分からなくなる時がくるかもしれません。
それが「素」に戻るということ。
化粧品の宣伝のようですが、その気づきには個人差(時差)がありますのでご了承ください。しかし、もれなくあるものですからご心配なく。