不安で掴まってるならいっそ離せばいい。

自分の足下がやっと見えてきました、やっとです・・・これから、また新しいワークに取り組みます。 根源に還るワークになりそうですし、それらにはきっと覚悟が必要なのだろうと感じます。・・・でも、やります(覚悟と決断あるのみ!)


今日はいろんな要素を盛り込み過ぎたかなと思うくらい・・・長いです。お付き合いください。

私達はずっと何かに「掴まって」生きてきました。

赤ちゃんは親に「掴まって」
親はそのまた親や育児書に「掴まって」
育児書を編集する方は著名な先生に「掴まって」
先生は知識に「掴まって」・・・

よく啓発本に「思いを手放して下さい」というフレーズがありますが、「掴まる」にも同じことが言えます。

55267cb5映画「タイタニック」を思い出してください、不沈の豪華客船タイタニックが海に呑まれていくシーンは、何にでもしがみつかなければ、人に、ポールに掴まっていなければ「失う」「亡くす」「助けて」と観る者を恐怖パニックの映像に見事に引き込み、その臨場感を味あわせてくれました。

「生きる」ということは何かに掴まり立ちしなければ要領を得ないのかもしれませんが、要領を掴んだら、それこそ手を離す、そんな経験を重ねながら人は「成長」していくものです。

しかし、大人になっても掴まっていさえすれば安心という思考にしがみついていると、人が何かに恐怖するとき「誰か!何か!・・・」とパニックを起こしてみたり、また、思い切って腹を括る経験なしには、常に時限爆弾を抱えているようなストレスと共に生きるようになってしまうものです。

何かを選択するとき、脳は考えてなどいないのです、脳は自分の意識のアンテナであり、意識が脳に命令して遂行するだけ。発動の意識がなければ脳はうんともすんとも言いません、脳はアンテナです。 意識をジャッジするエゴが関わって行動を制限したり反抗させたりするわけです。

私自身も「冷静にみて観ろ」と言われても直視できなかった事もありますし、逃げた時期もあります。そんな自分を恥じたこともありますし、アレルギー反応を起こしたことも、それゆえに拒絶し攻撃的になったこともあります。

掴まるものが無くなった時の心許ない不安や恐怖は私も理解できますが、それら漠然とした感情は、どこか理路整然としておらず、ちらかというと、脚気(かっけ)のような刺激に対する反応に過ぎないと感じます。

人や何かを失った悲しみ、苦しみ、私も1年以上一人で出歩けなくなったことがありますし、これ以上のことは無いだろうと思い心細さに明け暮れた時期がありました。

掴まるものを失う経験をすると、掴まっていたものへの想いがどれほど偏っていたのか嫌というほど分かります。
抜け殻になると、先のことさえどうでもよくなり、それでも、理性は自分の中身(自己愛)が無かったことを咎め(とがめ)、精気さえ湧かず、出口をますます遠ざけてしまいました。

のちに、この経験で気づいたことは、自分以外の何かに対する強い思い入れは、委ね方によっては負担=「重み」にしかならないという事でした。

TS3C0085よくある恋愛ドラマに、尽くすヒロインに対し「お前のそういうところが重いんだよ」と彼が言い放つ(古い)セリフがありますが、あのセリフはエネルギー的には本当のことです。

そして、ヒロインが彼に背負わせたエネルギーの重みを、そのまま「ガ~ン」というまさに岩の重みをもつショックで返却されます。

エゴはエゴで返される、やり取りはすべて「±0」ZEROです。

その後の気づきの速度は人それぞれですが、気づきがない時は、自分に非はないこととして、表面的に彼のせい、ものごとのせいにするご都合主義で処理し、カルマや深い心理に気づいていないので何度も同じことを繰り返します。「調和」で考えられるようになるまで・・・

私達のいる地球は、全体調和の大原則のもとにあります。言い換えると、宇宙全体自由天意の法則のもとにあります。

個のことばかりであれば、天と地の天意(あい)を受け取れず、ズレた生き方しかできなくなるのも当然かと思います。(※良い悪いでなく)

起きる出来事が、世間的には不幸なことであっても、いつまでもブツクサ言っている人とそうでない人がいるとすれば、天意のもとに個の有るか無しかすらも、無意識に何かしらで感じ、それが意識の差となって現実に表れている気がします。

天の意思が天意(あい)、空、zero、宇宙は「自由意志」であり、それは軽やかで重み=重力を持ちません。

2939603i私達も本来、重みを持つ必要はありません、重力すらもコントロールのような気がするのです。 くっつきあう性質を持つものはアース(電気)で、気の漲り(みなぎり)で引き合っている気の作用だと思って下さい。

不要なモノを溜め込でいない、身軽な方が、空っぽの方が気は身体の隅々まで行き渡り、地のエネルギーと繋がり、天のエネルギーと繋がり、天地人の人(個)として天意のエネルギーで生かされると感じます。

毎瞬、新しいエネルギーの流れを感じ、気力を漲らせる(みなぎらせる)ことができれば「スーパーサイア人」になるのでは?そう思うほどドラゴンボールは漫画ですが真理だと私は思っています。

どうしようもないときは、すべての思考を屈服させて、自らの気の漲りを感じてみると感覚器官と細胞は全身で答えてくれます。「掴まる」ことを止めてみる、重力を手放し無力になると、浮く。という発見があります。

その発見は、「手放す」勇気を出した分のもの、天意に心配など要らなかったと悟るもの、そして、自己信頼を持つきっかけになり、その後の現実を創り出すことが楽になるかもしれません。

エゴを願ってばかりでは現実は動きません。手放した時の閃きと、決意からくる言葉と、それに伴う行動力が現実を動かすカギになることは間違いないのです。

 

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