意識で現実が創られる

lgf01a201412240700私達が、ハッと我に返って辺りを見回すと、身近なモノが実は危険かもしれないと気づいたり、一見、時代遅れのようなものの中に叡智が組み込まれていると感じることも少なくありません。

分かりやすいお話を例えにすると、お子供様を持つゲスト様から、よく、「出回っている食品の安全が気になります」と、御相談されることがあります。

私も一時期、口から入るものすべてに気を遣いコダワった時がありましたのでお気持ちは理解できます。

しかし、気にし過ぎるあまり、加工食品に対して今までになかった抵抗を生み出している自分に気づきました。

「何を基に」が大事なのでは?と、以前、フジコラムで皆さんに問いかけましたが、気遣いが不安や心配にフォーカスしていては不自由が日常的に溜まって行きます。

食べたい物を、食べたい時に、食べられる嬉しさ、楽しさに目を向けるか

食べたい物を、食べたい時に、食べられる心配、怖さに目を向けるか

どちらも、自分の思い込みに固くなれば、身動きが取れなくなり、コダワリや好奇心も不自然なものになります。

意識の自由は、選択の自由に繋がり、意思を行動に移し現実にしていくのは自身です。

何を基にしているか、何にフォーカスして動いているかに立ち戻ることは、私達にとって現実を大きく動かす大事な視点のような気がします。

あなたは何を観て、何にフォーカスして 「今」どう動いていますか?

大事なのは意識を「今」に、今を生きることです。

 


 

【もっと分かりやすく理解したい方に】

311を経験して、当時ライフラインが寸断されました。

電気は通らず、暖を取るのもヒーターは使えず、ガソリンも手に入りづらくスタンドには車の長蛇の列が出来ていました。

食べる物も材料はあるものの調理ができませんでした。

そういう、非日常を経験すれば、想像すれば理解できると思います。

究極を体験しなければ「ありがたみ」が湧かない枯渇した一人ひとりの心。

そんな現代人にとってあの教訓は何を生んだのか? スピリチャルではあの惨事によって一人ひとりの意識の目覚めが促されアセンションにつながる体験となったはずです。

あの時から、東北という土地に暮らす人々、また日本や世界の人々が共鳴し、どんどん目覚めています。

人々の意識が恐怖の対極にある、天意=愛にフォーカスできる意識に。

恐怖が悪いわけでも、楽しいが良いわけでもありません。

自分がどちらにフォーカスしているか=偏りをもって見ているご自分の意識にご自分で気づくこと

答えは無数にあります、そのひとつに決めてそれを体験したいと願うならば「何を基に見ているか」という意識をもつことが体験の種になり、そうすることで無数の答えに出会える、広い心を持つ自分にもなれると感じるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です