ワイドショー・コントロール 集団心理

gf01a201502261600中一遺棄事件、関係者のご心痛はいかほどか、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

今日はこの事件に係るマスメディア、特にワイドショーに観る集団意識のコントロール術についてお話ししたいと思います。

この事件、中一12歳.13歳、その幼さを見れば、なぜその行動を取ったのか?その間、親は何をしていたのか?今どきの子供の交友関係はどういうものか?
事件を扱うニュースや特にワイドショーは、手探り状態でいろいろな仮説を論じていたように思います。

画面に出てくる出演者は、あたかも庶民の代表であるかの様な口調で、コメントを視聴者に投げかけますが、フジコラムをご覧の方々には、よく私がお話しする『何を基に話しているのか?』が、ここでも前提になってくることを確認して頂ければと思います。

犯人(?)が逮捕されるまで、マスコミはこの事件にいろいろな仮説をたてました。

三角関係のもつれで殺害し親が遺棄した
不良グループが複数で二人を殺害遺棄した
親が犯人説
虐待説・・・etc.

いつもこの手の話題を井戸端会議的に話すワイドショーを観て「知りもしないことを、まるで「家政婦は見た!」かのように話すわね・・・。」と感じるのです。

一体、何を基に話しているのか? ワイドショーの場合、部分部分や断片を取り上げ、繋げた話。

それはZEROスピリチャルセミナーを受講した方々にはご理解いただけると思いますが、人ひとりには何人ものパーソナルが備わっており、そのパーソナルを皆が皆、コントロールしきれていないのが現状です。

誰にでも理性を失えば起きうる可能性について、ワイドショーの言うがまま、それを鵜呑みでボンヤリ認識されている方々にハッキリと目の覚める言葉でいうなら、それを『デタラメ』というのです。

史実的にみても、そのデタラメによる「冤罪」は特に昭和に多く、その時代、日本警察の犯人検挙率は世界No.1であり、これは日本人独特の緻密さの表れだと称され、また、刑事ドラマの影響も手伝って警察はミスをしない、間違ったことはしない、という迷信まで作りました。

実際は、死刑になった方の中にも、多分に冤罪はあっただろうと言われているのです。

おとなしい方が疑わしいだけで、突然、犯人にされ、でっち上げられた状況証拠を基に、事情聴取、裁判、判決。

当事者の困惑を他所に、勝手に進む推理を把握していくことがやっとの状況で、自分を擁護する言葉がこの先の自分を決めるプレッシャーの連続という状況にある一般人が、一方的なシナリオばかりを並び立てられ、詰め寄るように周囲から、あとはYESの一言を待つだけの状況にどんどん追い込まれていったら?

踏ん張りどころが分からない、誰が味方なのか分からない、その絶望的な不信感は、精神的に人をジワジワと絞め上げて行くに違いありません。

当時、事件の輪郭を造り上げていく過程においては、犯人がどういう人物であるかは無関心であったのに、昨今、感情系バラエティーにおいてパーソナリティーが重視され始めていることには、また何か新しい常識に変えようとする動きであるような気がして、ある種の薄気味悪さを感じてなりません。

評価を前に「疑わしきは罰せず。」という理念はぶっ飛び、マスメディアをさながら公開処刑の様な危うい役割にしたのは、やはり、私達のモラルの低下が招いた過ちであり、また、そのような形のジャーナリズムのあり方も、はなはだ疑問に思うワケです。

ヒーラーとしてこの手の話をエネルギーで観てカウンセリングする時には、噂話・デタラメを広める様な想像の話しは、意識的にその想像にも責任を持つ必要性を説きます。

なぜなら、創造は現実化の種ですので、「初めに言葉ありき」すべては言葉にした事で新たな現実を造り出すエネルギーを持っている事に気を付けなければならないのです。

電波は私達の思考と心理を正誤・優劣・善悪で煽り立て、世論を動かすマッチポンプの役割もあることを、社会システムとして知っておくべきかもしれません。

電波を通す私達の集団心理は、有識者や好感度の高いタレントが感情表現豊かに語る、世論を動かす一方的なコメントに対し、茶の間という日常空間で無防備であるがゆえに、無意識に情報をインプットし、酷くコントロールしやすい状態をつくり、即座に嗜好の反応で表情や動きに連動させるほど、人を無分別にさせます。

情報発信源の『推測』『憶測』『罠』『デタラメ』を、感情表現豊かに、過去の出来事や、力ある人を引き合いに出しては「正当性をほのめかし」、最後に「気の毒」で〆るコメントを吹き込めば、無防備なオーディエンスは「みんな仲良く」という正義の立場で悪を勝手に作り出し、あたかも周りの総意の様に話した挙句、矛盾にも「仲良く出来ない人」を造り上げるのです。

日常では、井戸端会議などもそれに当たり、人の陰口を言うこともそれです。

半ば愉快犯のごとく、誰も責任を持つことのない噂を伝言ゲームの様に楽しんだとしましょう、TVに例えるならば、デタラメがどう拡散されたを知るデータが「視聴率」であり、デタラメの拡散の有無を問わず、話題性に人が飛びつき群がることをビジネスとして成立させているのが私達であるワケです。

生かすも殺すも「何を基にした執念なのか」次第。

これまで、その執念を持って何人もの人をデタラメで殺めてきた方も、撒いた種は必ず刈り取る時がきます。

lgf01a201407052000繰り返し語られることは、風の噂となり、枝葉の葉と葉を勢いよく揺らしますが、風に揺れてカサカサと音を立てても、やがて、その葉は、そのしなやかさを失い、枯れて、追い風だったその風に吹かれ落ちる。

不幸を餌にした噂も75日で消えゆき、また、どこかで、何かが始まります。

風の噂にザワめくのも、風次第ではなく自分の在り様次第だと心に留め置いていただければと思います。

信頼を寄せている在る方が、こう言っていました。

「繰り返し語られることによって間違いが真実になることはなく、また誰も理解できないからと言って真実が間違いになることもなく、真実は真実として歴然とただ淡々とあるものだと想う。
それにしても、当たり前のように虚偽がまかり通るこの世界では、真実を語ることが勇気の要る行為であるのには参る。」

現実的に『至極まっとう。』だと感じますが、賛同される方がどれくらいいるものか・・・。

皆様に自立を問うて、今日のコラムはお仕舞いにしたいと思います。

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