Pure Awareness 純粋な気づき 2
Pure Awareness 純粋な気づき 1 のつづきです
「心で心を癒すことが出来ると思わされていること、また、それを信じ込んでいる社会」
打ちのめされた心に 思考が追い打ちをかけます。
謙虚にならなかったからだ
気を引き締めなかったからだ
お前は正しい行いをしてきたのか
人に優しくしてこなかったせいだ
やるべきときにきちんとしてこなかったせいだ
・・・だからお前はダメなのだ。
・・・・・
・・・・本当に私はダメだ。
ちょっと考えてみて欲しいのです。
大人と子供の違いはどこにあると思いますか?
体でしょうか?
知識でしょうか?
お金を持っていることでしょうか?
成長期を経て後、年を重ねただけの集団が、家族を持ち、家を構え、仕事、蓄え、老後、病気に備えることを人間の姿と思っています。
しかし、その社会を構成する大人のメンタルは思春期の少年・少女のまま・・・そこへ権力・知力・体力・お金etc.を持って大人、一人前とみなす社会はこじれて実に傲慢で厄介です。
見た目には成長しても、心に住むあなたは 何歳から成長が止まったままですか?
それがあなたの意識年齢だとすると、実年齢に追いつこうと心は足りないものを求めているはずです。
そのままでいいはずがないけれど、世間が想う大人になりきるのは大変です。
子供が笑いもせず
子供がデータのみを信じ
子供が未来を心配し
子供がビールを飲む
子供がたばこを吸う
子供が賭けごとをする
子供がダイエットする
子供が結婚し
子供が能書きを垂れ
子供が子供を産む
子供が責任を取る
これが文明を内側からみた視点、現実社会における事件・事故ののカラクリが見えてきませんか?
社会ルールは必要なものですが、ルールによって既に裁かれた者を、未熟な大人社会が更に裁く、私達の実態を見ずに誰もがいっぱしです。
外側ばかりに気を取られ、縮こまった自分を知らない大人の実態、個人の生きる力は実年齢とはまったく関係ないその現実に基づいた目線を持ってば社会全体がガラリと変わるでしょう。
ファンタジー・スピリチャルは運上げに結果を求めますので、美味しいご飯を食べること 今よりも豊かな生活 良いパートナーを求めること といった、実感を欲しがります。
しかし、もっともっと、まだ足りない、もっと欲しいと願う生活が、落ち着いた安らかな暮らしに繋がるかどうか?
喜びのベクトルの方向、外的刺激で起こるワクワクは神経反応でしかなく、本当の豊かさは心の持続性にある気がするのです。
見えている表れや認識されている概念 すべては 私達が見たいところを見て、聞きたいところを聞いて、話したいところを話す、切り貼りした記憶、個人が創造したストーリー。
極端に究極的なことを言えば すべては浮かんでは消える ”泡” マ~ボ~ロ~シ~です^^
すべてという液体から泡ぶくが起こっているだけ、液体からふわふわとシャボン玉になって飛んで行ったことなどないのです
全体から切り離し自分・個がいて分離していると「思い込んでいる=ego」だけ(※egoが悪いと言っているのではありません)
今でもあなたという個は存在せず 起こる全ては全体性のなかの泡です
その事実をegoは嫌い、自分がやっていると主張・強調したいのです。ego=自我。(※何度も言いますがegoの性質の話です)
一人として生まれたと思い込んでいるのですから、その生命を謳歌したい欲求=エゴを出すのです。
(※ですからそれに気づけばエゴって大したことないと思えるのですが、それに気付かなければエゴを簡単な生理現象とは捉えられないかもしれません^^)
いま人々が忘れてしまっているのは、「全体性のバランス」それは、個人の所有欲によって起こります。
私が私がと、全体から分離した個人感覚に偏っており、そして、個人を主張する根底には、必ず信念と思い込みを作る地球ルールを採用しているループに気付きません、全体性のバランスは生命の根源レベル、1%のegoなど吹っ飛んでしまう愛のレベルの話です。
以前、ワインとお酒のあて。について理路整然とよどみなくお話になられる方とご一緒しました。
このワインは、~地方のものだから、これには~が合って、~で、~なので・・・。
心の声:( 記憶力ハンパねぇ~っ。)と心の声さえ裏返ります^^;
でも聞けば聞くほど 「ど~でもいい」になってしまうのです 「まぁ~いいよ」になってしまうのです
周りもサ~ッと潮が引くように シラケて黙ってしまいました。
無言ながら皆は 良識を光らせる者(=ego)に、egoの比較をして心の奥の奥の奥底でツバを吐く気持ちと、その綺麗事が縛る窮屈、人の話を聞くべきという良心がとがめる心理と快楽罠をそれぞれの心で駆け引きしているのです
知識と経験の大差ありませんがすべて個人のストーリーでの視点。
そのストーリーを誰かがコントロールしたい・されないという行動・判断はその瞬間に起こる自我egoの諸行=表現でしかありません。
そこに連続性はまったくありません。すべてはその時に起こる一過性のもので、過去も未来もありません。
みんなが安らいで生活するために必要だと感じていることは、抵抗のない安心=ありのままの自己信頼であって、アピールできる強みは”オプション”ぐらいにしか考えていないのです。
安心が欲しいだけで、「で、どうしたいのですか?」という” 問いかけ ”も煩わしいだけ
napierがスピリチャル・ライフで提言していることは 「自分に還る純粋な気づきに・気づくこと」それだけです。
理性・知性で良い悪いを考えなくても、基本タマシイが知ってます^^ 秋田弁で言うと「いいふりこぐな!」⇒よいふりするな「かっこつけるな^^」
無い=ZEROから、やりたいことは湧いてくる、そうすれば、心の広がりに気づけます
ZEROだから無理なく流れに任せられるのです、持たないことを悲観せず、任せることを堕落と否定しないでください
あれ、これ、私、グラス、テーブル、椅子、それらレッテル貼りがどうでも良くなり、そうした個であることの緊張から解放された安らぎが訪れ、いずれ分離のない一連の現象でしかないことが分かり、個人すらも源泉ソースの一部だった!と溶けていくかもしれません^^。
まずは 今と違った目線と、自分の心地よい状態 それを普段の生活で思い出したり、感じて欲しいのです^^
人生の中でこうしたことに少しの時間を使う価値はあると思われますか?
そう思われる方はスピリチャル・ライフ是非スタートさせてください!
何も頑張らなくてもいいのです!経験も要りません!(逆に煩わしくなるだけです^^; )
気づく力は、誰もが持っている力、マインドを通さずハートで感じてみて下さい そうすれば、Pure Awareness 純粋な気づきは、ゆるやかに始まります。
ZERO=源泉ソースがあり、そこにいつも触れていること。そして、そこに任せておくだけで自我がすることなど何もないこと(自我は嫌がりますけれど^^; )
私は追突事故で長引いた鞭打ちの痛みが、1度のZEROを意識した、気づきのヒーリングでまったく気にならなくなりました^^自分でもびっくりです!
カリスマからズバッと答えをもらっても、思考は長年の習慣を元に慣れた感覚に戻そうとするでしょう、それが人のクセなのですが
思考で出来上がったクセは直す時間が必要ですが、「気づき」は一瞬で意識を変えます。(※思考が悪いといっているのではありません^^)
気づきは外から与えられるものでも 買うこともできません、一人ひとりのタマシイが知覚する喜びが光った閃きです。
その”気づき”だけが、あなたの中で化学反応を起こし、いつでもどこでも自分を癒せるのです^^。
気づきは、心身に解放と治癒をもたらします。
一度知ってしまうと、あなたがあなたに出来ることが沢山あると知るでしょう。
仮に、不自由な過程であっても、いつも源泉ソースはパーフェクトな状況を生み出してくれていることに身を任せることも、心を安定させることも、落ち着いた行動も取れるようになります。
生きることに気づきを! napierはいつもそうであって欲しいと願い、そうありたいと願う方を応援しています。