スーパームーンと。も少し、リベンジの法則について
今日はスーパームーンだそうで、秋田はお天気に恵まれて良いお月見が出来そうです。
お月見だけではなく、意識が騒がしい落ち着かないと思われる方もおありかと思いますが
ただ、起こることは起こり、起こったら消えていく・・・
ご自分の意識の在り様をお月見と一緒に眺めて観るそれだけで
これからのご自身の在り様が分かってくる そんな満月だという気がします。
まずは、頭で考えるのではなく 感覚で楽しんでくださいね♪
泣きたいときは泣けばいい 誰に遠慮がいるものか!
怒りたいときは怒ればいい 誰に遠慮がいるものか!
笑いたいときは笑えばいい 誰に遠慮がいるものか!
悲しい時は悲しめばいい 誰に遠慮がいるものか!
でも、まき散らすだけでは 八つ当たりか リベンジになってしまいますね
人には有難く理性というものが備わっています 上手に使いましょうソレも^^d
さて前回の「人のふり見て我がふり・・・」の話の中で『 鏡の法則が、結局は『リベンジの法則』になる』という表現を致しました。
そのことについてもう少し補足致します。
「そうか、思った通りにならないのはコレがいけなかったからだ!次回は必ずリベンジ!」
私自身にリベンジ もあれば 誰かにリベンジ という場合もあるかもしれませんね^^;
でもこの発想のベースにあるのは
私が 楽しく 幸せでありたい
私が 苦しみから 逃れたい
私が 恐怖とは 無縁でありたい
というネガティブを悪とした「ポジティブ信仰」からくるアイディアだと気づいてください
そして ポジティブ信仰は 全世界の一人ひとり妄信している信仰です
毎日、年がら年中、誰しもが今日のラッキー、今年の運勢、順調な仕事、ギクシャクしない人間関係・・・といった『私の幸せ』頭の隅で求め考えています
こんなに全世界に共通した意識が 人々に浸透しているなんてスゴイことです
・・・しかも すべての人々が漏れなく「幸せ」という言葉には無意識にオートマチックに反応します^^;
すごく徹底された観念が植えつけられているといってもいい現実世界だと感じませんか???
人が人たるゆえんは 肉体を持っていること(肉体がなければ霊体ということさえ否定されてもいますが)
けれど 肉体は現実に存在するためのボディースーツです(時がくれば朽ちる事実を直視したくはないでしょうが)
私が私として現実に生きれる条件は 時空のなかに意識をとどめて置けるからです。
自分が人間であると自覚できるのは、空間に自意識を閉じ込めているから
その時だけであり 睡眠中や大笑いしている時だけは「私」を忘れています。
あなたは観察できるものをジッと見る、観察する側の意識をもった者です。(主体から客体を視る者)
その観察者は現在まで 他人の行いを見て 真似て 表現していくことを繰り返してきました
世間がお手本であり 世間が親であり 世間が子であり 兄弟であり 恋人 夫婦 家族です
観察者として 自身の意識や 自身の経験も 観察できる側にある と理解できれば
憎しみ争うことも 自分を呪うことも 人の奴隷になることも少なくなるでしょう。
個人個人が幸せを所有すること・苦しみを回避すること・得体の知れない恐怖におののく事にこだわっているならば
根本に自意識を手放すこと・逃げること・恐怖を味わうことが 幸せな状態ではない。と、ネガティブを出発点にした「ポジティブ信仰」を採用しており、「今日より明日」「今より先」「未来は明るい」と自身を奮い立たせ、常に頑張らせていると気づいてみて下さい。
これら礎は 人生経験からきたもので 自然なことというよりは算式のような唯一の回答を出す思考が働いてのことです。(考え出す思考が悪いわけではありません)
経験には結果があり その価値基準は社会ルールを基にした判断であり 自意識による解釈が記憶になり新たなEpisodeを創作します
私から見るとそんな辛い思いをされたのに!という方が 今は大笑いして「あれは愉快だった」と豪放磊落におっしゃる方のなんと頼もしいこと
けれど、それ自体が今の自意識による解釈の新しい体験であって、今の瞬間も新たなEpisodeを創作している、今という生ものを、今に創造現実化している産物なのです。
本当に 人の記憶による反応は様々で面白いですね^^
私達はこれからするであろう 新しい経験が 幸せであるべきだ と思っている以上
一生懸命 怖さを 避けよう 避けようとしてしまいます(ポジティブ信仰にハマればハマっているほど無意識に)
でも、「幸せ」に求めていることは 経験と結果とその自意識によるEpisode=創作活動で、自意識からくるポジティブ信仰でもたらされる結果をいうものではありません。
絵に描いた通り一遍な現実が幸せだと考えているなら、自身の幸せではなく世間一般の幸せというものだといったほうが良いかもしれません。
浮かんでは、湧いては、消えていく それがこの世の現象・症状
その現象・症状に意味や価値を付けることが人を高みに持ち上げる術だと教えられた現実世界です。
でも、良い経験 悪い経験は どちらも永遠に続きません!
これだけが事実です。
良い経験も 悪い経験も 価値基準に当てはめ判断されますが、それすら 浮かんでは消えるアイディアです。
絶対のものなどこの世にひとつとしてないのです。
そして、変えることなどできない起こったことを直視できず、受け入れられないと抗いたくなる気持ちは、まさに「ポジティブ信仰」の副作用なのです。
苦しみを考えついたのは 自分という個人であり 幸せそうな人と・不幸な私 と個人を外界と分断したときです
そうすると 個人の孤独感が増し 決まってエネルギーは収縮してしまっています。
胸がキュンと縮む感じたあったり 肩が凝ったり 首が凝ったり お腹が痛くなったりと・・・
それがエネルギーの収縮で起きる体のサインであり、私達のボディースーツは素晴らしいアンテナです。
けれど、それが「苦しみ」とは関係ありません。
苦しみは自意識・概念であり、エネルギーの収縮は体の反応です、現状の苦しみの理由や意味、その苦しみの価値を永遠に持ち抱えることとはイコールにはならないのです。
逆に人に邪魔されず 好きなことをしている時は 解放感に満ち足ります
あぁ、自由だ~幸せ~^^♪ と思ったりしますが
でも、ちょっと待ってください
好きなことをしている時は確かに解放感に満ち足りて エネルギーが解放された気がしますし
苦しい時のギュッとしたエネルギーの体の強張りは全く感じられません
でも どこかの貴方は、どこかで何となく感じています。
あぁ幸せだ。と感じる心ですら断片的なもので 消えてしまうものであることを・・・
満足も幸せも起きては消えていくもので続きはしない
それを分かっているから 人は次々と中毒のようにそれを探求し継続させようとします
その探求は命尽きるまで ひょっとすると命尽きる時が解放に通じる道だといっても過言ではない気がします
これが幸せと不幸の概念 幸せという架空の入り口をいくら探し求めても 入口も出口もないのです
現代人はポジティブ信仰によってモーゼに導かれ彷徨う群れ カオスの坩堝に自らを閉じ込めたままです。
ポジティブ信仰を盲信している方には残念なお知らせですが
幸せという価値観の対極にある不幸を並べてみることをお勧めします。
幸せを追いかけていると そうならないことを願い、幸せという魔物に食いつぶされてしまう自分がいることを直視して価値観をフラットにしてみるのもチャレンジです
その場合、少なからず何らかの依存症を患っている場合もあるでしょう。(カウンセリングが必要な場合もあるでしょう)
逆に、良いお知らせは
そこに気がつけば 親や子供や恋人や他人など誰かに自分を依存することも 物などを所有したい欲からくる買い物依存症、賭け事依存症の類の中毒症状も 「何か」を探し求めていたことを知り、求めていたものが最初から「無」であった、マボロシ~であったと整理しておくと
大量所有が幸せと勘違いしていたこと、何も無いことや孤独は、実は人の顔色をうかがうことなく、行動を広く自由にし、自分には優しさに満ち溢れているものだったということが明らかになるでしょう(慣れが必要ですが)
そして、本来の求めていたことが「自分に還る」ことだったと気づく糸口が見つかり、断然、今より気持ちが楽になっていくことでしょう^^