今週の出来事 雑感
ある日のフォト
夏至の日、あまりの眠気に負け早々と眠りにつきました。
夜中にフッと目が覚めると
「暗は全て、祝福もあり
光射すところは個、苦悩がある」
と湧いてきて、なんとなく怖気づいてしまって
また目を瞑ったまま、寝てしまったのですが
しっくりする気づきだったなと感じ入りました。
究極、生きることに理由などありません、無くてよいのです。
呼吸や鼓動を自らの意志で止められないように
自分と生をどう意味づけるかを追求するのが人ですが
実は、何も結びついてはいないのです
そう思えないのは自分と何かを分けて考えるからなのです。
でも、主体が主体の体の局所に分けるって可笑しくないですか?
そういう視点に立てば、そういう思考があるだけということに気が付きます。
私の手、私の足、私の体・・・手も足も体も私に違いがないのに
明らかに、私・主体から手・足・体の客体としてバラバラに考えてしまうのです
そうした思考が当たり前のように分ける理由をすぐ探してしまうので
時に、その理由(=存在意義)が現実を酷なものにすることもありますね
本当は、あるがまま、分離したようでいても何ひとつ分けられません。
そして、今を実感できることだけが人の生であり現実である世界
起きることが起きる、このシンプルな現実に人の思考は抗いたくなります。
人生を良くしようというマニュアルは沢山ありますが、
逆にマインドは出来ないことを探すのに忙しくしており
そこから湧いてくる苦しみは切が無いかのようにグルグル同じ場所を回ります。
ですが、全てが動いていて それが自然で、それだけが本当。
自我は自力で成し遂げたいと考えますが、現実を自力で動かすと苦戦します。
現実を真摯に受け止めるところに戦いは生まれず、時が色褪せることもありません。
今週はいろいろ心が動きました。
病気について、少し。
私達は常に創造しています。
肉体が創造をするのではありません、心が創造すると表現しましょう
心が緩むことは、許すことに繋がり、そうして初めて癒しが起こります。
奇跡は創造の産物ですが、それは知覚の変化をいうのかな・・・と思います
ですので、変化の表れを奇跡と呼びたくなる気持ちも分かりますが
ケミカルラインは人それぞれですので、
やはり、奇跡はあって無いような、概念でしかないのです。
LIFE は原因から結果を見る常識が働きますが
時はポツポツとした点で、ひとつとして同じ点はなく直線には成り得ません。
事実、病の原因が過去からの蓄積とする仮説は明確な根拠には成り得ませんし
総じて、年=老化と言われる括りで濁されることもありますし
原因から結果を見ることで、直線的時間軸が起きてきて
過去に原因を探る辻褄合わせをし出すと
後悔と反省が湧き、未来に不安と心配が湧いてきます。
現実は思考の働き見て、創造は心の働きで観るもの
心から観る場合は、結果から原因と冷静に振り返って見て下さい。
すると、不安や心配より今に力を与える働きをするかもしれません
時に LIFE では、酷な出来事もまま起きます
そんな時、私達は都合よく個人感情とエピソードを繋げストーリーにしますが
真理を服用している人の心は現実の混乱を持続させることが少ない気がするのです。
怒りを抱えつつ、許そう前に進もうと思える時期が来たら、
怒りにほくそ笑む力が湧いてくるかもしれませんし
哀しみに暮れながらも呼吸をつづけていく先に、
哀しみに陽が射してひとつの情熱を取り戻せるかもしれません。
結果が何かを分かつものはありません、分かつ考えがあるだけです。
私の時空間における、知覚の変化が起こす軌跡=奇跡が癒しをもたらします
それこそ、自己治癒力という奇跡で、奇跡は誰でも起こると安心して下さい。
また、死に関するエピソードに向き合うのは勇気のいることです。
身近であればあるほど、感情がざわめくのももっともなことだと思いますし
哀しみについて前向きであろうとすれば、故人を忘れようとする裏切りに感じて
罪悪感も抱えてしまうこともあるでしょう。
故人を悼むことは必要ですが、死に対する概念を見ることで
現実を受け入れやすくなると思うのです。
死は悲しいと思っているのは誰でしょう?
死は苦しいと思っているのは誰でしょう?
死は孤独と思っているのは誰でしょう?
・・・死が恐怖を与えてはいないことが分かると思います。
あなたの現実が思いのまま描かれているかもしれません。
それはそうと、睡眠は大事です。
眠気に誘われる方もおいでかと思いますが、無理をせずに寝ちゃいましょうね^^