ジャパニーズスタンダード
以前、どこかで「エンパス」という能力についてお話ししたことがあります。
【エンパス】
相手の身体的痛みや感情の起伏を受信する能力のこと。 洞察力や感情移入などの思考によって分かるのではなく、自分の身体的あるいは感情の「感覚」として感じ取る能力。
ある研究では日本人の5人に1人がエンパスだと言っていますが、以前、クルム伊達選手が東レパンパシフィックの試合中「ため息ばっかり」「シャーラップ」と叫んだ試合を覚えているでしょうか?
ミスがある時に全体から湧く「あぁ~」とか「うわぁ~」というため息は、まさに「ジャパニーズスタンダード」だと感じます。
少し前、空氣を読めない人のことを「KY」と表現した時がありましたが、このコラムでもお話しした通り水には情報伝達能力があるので空気中の酸素に含まれる水素も情報伝達媒体です。
その媒体を波動と言い換えると、波動が下がれば時空間の経過を遅め、恐れと不安を強めます、逆に時空間の経過が速ければ空気感が生き生きしてくるものです。
ですから、クルム伊達選手を苦しめた「ため息」は観客の「概念の声」であり、鍛え上げた肉体と五感を持つ選手にとっては、「ため息」によって操作され、侵害されていると敏感に感じ取るには十分な材料だったと感じます。
また、最近のフィギュアスケート男子、羽生選手のリンク接触事故もまた別の意味で「ジャパニーズスタンダード」だなと感じました。(※批判ではなく)
がんばっている人にエール。 いわずもがなの「スポ恨」スタンダードですが、苦労や努力が実るとき達成感を味わうのは個人です。
観戦しているとつい必死に応援してしまうものですが、その心理は選手と自分の努力と重ね合わせている共鳴力によるもの。達成感はあくまで選手個人のものです。
そのスタンスで考えると選手に対する応援がクルム伊達選手の応援のように思わぬ落とし穴となる場合もあるわけです。
選手に観客は出来る限りの応援で後押ししようとしますが、全体意識の視点からみると誰でもないあなたが(選手が)、自分ひとりで成し遂げたくてしている経験であり、生きる歓びを楽しんでいるのです。 ですから善かれと思っているその応援が、あなた(選手)より出過ぎて邪魔に、時には同情などの感情があなた(選手)には過剰な領域侵害、暴力的に感じられる事があるのです。
誰にでも、良し悪しはもわかります。それは根本です。 そのうえで同胞意識から「よくやってくれた」「よくがんばった」「ご苦労様と言いたい」と結果に対するコメントは、日本人気質のねっとりした「演歌的ムード」をどこか漂わせ、違和感が湧きます。
その本質は選手に自分を被せた代償行為を我が喜びにする違和感であり、選手は結果について応援者より予想意外にドライだったりするものです。
このコントロールもスタンダード過ぎて気づかない、「和」の側面から造られたジャパニーズスタンダード一種です。
これがもし外国でしたら「グレイト」「エキサイティング」「誇りに思う」という公私を分けた感動コメントだったりしないでしょうか。
さぁ、この話、親子関係、職場関係などにみる依存の人間関係に似ていると思いませんか?
簡単に我をくっ付けるべからず、明け渡すべからず、応援は息を吐くのではなく、息をのんで観戦下さい。
「いい母親」「いい民俗」と思ってやって来たことか覆りました(笑)
「ほっとく」「基本、自分のことだけ考える」にチェンジしてみます。
華桜こももさん江
人間意識=感情ゲームと思っている方がほとんどです。
ですから、「孤高の自立」と思って感情ゲームから外れてみる、そういうゲームと思って楽しんでみるといいかもしれません。
領域を侵される事を侵害といいますけれど、これを友情とか愛情とか情という部分でやってしまうと「いい人」が出来上がりますが、情はクサリです。(育児に情は必要ですが)
放っておくというのは「信頼」なくしてできない、それが意識の自立です。